この世の中では、大抵の問題はお金があれば解決できる。
その反面、いくらお金を積んでも解決できない問題もある。
そのうちの一つが、女心の闇だ。
女心とはやっかいで、「愛し愛されたい」「認められたい」という根源的な欲求をもてあましている限り、いくらお金を使っても満たされず、寂しさが埋まることもない。
私には、借金まみれで生きて、借金まみれで死んでいった祖母がいる。子供の頃は大好きで、後に大嫌いになってしまった父方の祖母だ。
子供の頃、私はお盆と正月に父方の祖父母に会いに行くのが楽しみだった。父の実家は神戸にあり、祖母は「神戸に住んでいるおばあちゃん」だから、私たち孫から「神戸ばあちゃん」とか「神戸ばあ」と呼ばれていた。
神戸じいちゃんはスラリとした体型に鼻筋が通った男前なのに、神戸ばあちゃんは背が低くて、ずんぐりむっくり。若くして頭髪も薄くなり、いつもカツラをかぶっていた。のっぺりとした顔立ちのためか化粧も濃く、お腹の突き出た丸い体に抱きつくと、白粉の匂いがプンと鼻についた。
化粧をしてカツラを被った神戸ばあちゃんと、化粧を落としてカツラも外した神戸ばあちゃんとでは、まるで別人みたいでギョッとしたけれど、私はどちらのおばあちゃんも大好きだった。
だって神戸ばあちゃんは、私たち孫のことをとても可愛がってくれる、愛情深くて優しい祖母だったのだから。
神戸ばあちゃんちのドアを開けて、
「おばあちゃん、来たよ〜!」
と大声を張り上げると、奥の台所からスリッパの音をパタパタと響かせて、私たちの到着を待ちかねた様子のおばあちゃんが走ってくる。そして、顔をくしゃくしゃにしながら
「まあまあ、ゆきちゃんたち、遠くからよく来たねぇ〜」
と出迎えてくれるのだ。それはいつだって心の弾む瞬間だった。
神戸ばあちゃんが私たち孫に向ける笑顔と愛情に、偽りはなかったはずだ。
けれど、自慢の子供たちや可愛い孫たちの存在は、神戸ばあちゃんの心を満たしてはいなかったらしい。優しくて、愛情深くて、気前が良かった神戸ばあちゃんは、私が生まれるずっと前からとっくに狂っていた。
「おふくろは、俺が大学へ行き始めた頃からおかしくなった」
と父は言うけれど、そのことが遂に表面化したのは、私が小学校高学年になった頃のことだ。
「もう誕生日やクリスマスに、神戸ばあから高価なプレゼントをもらってはいけない」
と、ある日とつぜん両親から言い渡された。理由を聞いても答えてもらえず、子供だった私の頭の中は?マークでいっぱいだ。
前年のクリスマスには、兄は神戸ばあちゃんから3万円もする高価な戦車のラジコンをもらって大喜びだったし、私は自分の体がすっぽり入るほど大きな段ボールにいっぱい詰まった、お菓子のセットをもらっていた。
「ゆきちゃん、クリスマスプレゼントは何がいい?」
と聞かれて、
「チューインガムをいっぱい食べたい」
と答えたら、市販されているガムの全種類が箱で送られてきたのだ。「お菓子屋さんでも始めるの?」というほど詰まったガムとお菓子の山を見て、気分はヘンゼルとグレーテルみたいだった。あまりに量が多いので、私は兄や友人たちにも気前よく分け、みんなで大騒ぎしながら頬張ったのは楽しい思い出だ。
それなのに、「もう神戸ばあからは何ももらっちゃいかん!」と、苛立った様子の父からいきなり怒鳴られた。なんで怒られなくちゃならないのか、どうして気前のいい神戸ばあちゃんから、もう楽しいプレゼントを受け取ってはいけないのか、訳がわからなかった。
子供には事情を知らされなかったが、実はこの時、神戸ばあちゃんに多額の借金が発覚して、親族が騒然としていたのだ。この時に分かった借金の総額は、およそ5,000万円だったと聞いている。
神戸ばあちゃんには、私の父を含めて4人の子供がいた。愛知県へお嫁に行った伯母さんを筆頭に、末っ子である私の父を含めた男兄弟が3人だ。この4人の中で、一番財力があったのは女である伯母さんだった。伯母さんは女傑と呼ぶに相応しい人物で、書道家として成功し、大金を稼いでいたのだ。
そこで、借金の大部分は伯母さんが引き受けることとなり、残りを3兄弟で分割することになったらしい。父も、この時は数百万円を負担したという。
神戸ばあちゃんの借金はこの後も繰り返されるが、父が借金の肩代わりに同意したのは、後にも先にもこの時だけだ。
これは昭和の時代の出来事であり、当時はまだ「依存症」という言葉もなかったし、それが精神疾患の一種だと言う認識もなかった。
そんな中で、父だけが、
「あいつは病気だ。いくら借金を肩代わりしたって治らん。むしろ病気をひどくするだけだ。自己破産させて、精神病院へ入院させておくしかない」
と主張して、姉や兄たちと意見が対立した。
特に、伯母さんは儒教思想が強い人だったため、
「親を精神病あつかいして、入院させるだなんてとんでもない。神戸ばあは苦労して私たちを育ててくれたのだから、その恩に報いないといけない。
第一、おじいちゃんはどうするのよ。借金のかたに家を取られてしまったら、住む家のなくなるおじいちゃんが可哀想じゃないの」
と言い張って、母親が作る借金を返し続けた。
結論としては、父が正しかったのだろう。
依存症患者は、借金がなくなると「申し訳なかった。1から出直そう」とは考えず、「あぁ、よかった。これでまた借金ができる」と考えるものだ。
神戸ばあちゃんもそうだった。子供たちに借金を清算してもらうと、再び散財を始め、またしても多額の借金を作った。2回目の借金発覚は、私が中学2年の頃だったろうか。この時に分かった3,000万円ほどの借金は、全額を伯母さんが引き受けることになった。
医者である父は、お金があっても断固としてこれ以上の肩代わりを拒んだし、2人の伯父さんたちは普通のサラリーマンで、2度目以降は支払い余力が無かったからだ。
金融機関のブラックリストに入り、もはや自分の名前ではクレジットカードを作れなくなると、神戸ばあちゃんは長男と次男の嫁の名前でカードを作り、買い物をしまくった。私の母が被害を免れたのは、「さっさと破産させて病院へ送れ」と言う父を恐れたためである。
神戸ばあちゃんの日頃の生活ぶりは、決して贅沢と言えるものではなかった。それなのに、なぜそんなにも頻繁に多額の借金を作るのかと言うと、「投資詐欺・マルチ・呉服屋」の3点セットに引っかかっていたからだ。
事件化してテレビで大々的に報じられるような投資詐欺事件や、週刊誌が「ヤバイ」と特集するようなマルチ商法には、だいたい引っかかっている。そういう悪徳業者に騙されるたび、百万単位でみるみるお金が溶けていった。
違法ではないものの、最も悪質だったのは呉服屋だ。
神戸ばあちゃんには、一緒にお茶を飲んだり、何気ない雑談で時間を過ごせる友達が1人も居なかった。身の回りの人たちからもお金を借りて、ちっとも返さないので、誰からも相手にされなくなったのだ。
おじいちゃんとは仮面夫婦で、私たち孫が遊びに来る時以外は家庭内別居の状態だった。
話し相手に飢えた孤独な老女を、呉服屋は丁重にもてなした。お茶を出しておしゃべりに付き合いながら、家族構成をすみずみまで把握し、
「そろそろ、お孫さんの成人式の準備をしないといけませんね。この振袖はいかがですか?」
「娘さん、こんど個展を開催されるんですよね。やっぱり書家の先生は、このくらいの格の着物をお召しになっていただかなくちゃ、格好がつきませんよ」
「お嫁さんに黒留袖は用意していらっしゃる? 1枚くらいは作っておかないといけませんねぇ」
などと勧めて、ことあるごとに高額な着物を売りつけた。
支払いが焦げ付いてカードが使えなくなると、神戸ばあちゃんは「必要な着物を見立てておいてあげた」という屁理屈で、伯母さんの家や伯父さんたちの家に、未払いの請求書と共に次から次へと着物を送りつけている。
その総額は、恐らく億を超えるのではないだろうか。
我が家は父が強力な盾となったことで被害が小さく済んだが、伯父さんたちの家庭は壊れていった。姑の借金と、それを庇い続ける小姑に苦労させられた叔母さんたちが、それぞれ子育てを終えると夫を見限ったのである。
神戸ばあちゃんをかばって借金を返し続け、着物の請求書を払い続けた伯母も、最後にはたまりかねて
「私は金の成る木じゃないのよ!」
と、周囲に当たり散らすようになっていた。
92歳でようやく死んだ神戸ばあちゃんには、最後まで借金の督促状が届いていたし、年金すらも無くなっていた。年金を担保にとる貸金業者からお金を借りて、年金が振り込まれる通帳を取り上げられていたのだ。
お葬式はあげられなかった。
姉弟4人だけで通夜を済ませて、火葬して、終わり。私は最後に神戸ばあちゃんの死に顔を見てお別れをしたかったのだが、参加を許されず、すっきりしない気持ちが残った。
大人になってからの私は、神戸ばあちゃんのことが好きではなかった。見栄っ張りで、嘘つきで、借金まみれで、口を開けば自慢話か悪口で、自分の非は決して認めず、他人に迷惑をかけても絶対に謝らない。血のつながりがなければ縁を切っている。
けれど、そんな人だからこそ、家族親族が振り回された30年に、きちんと区切りをつけたかった。
それなのに、葬式はなく、法事もせず、埋葬されたお墓すらもあっという間に墓じまいされたので、私は神戸ばあちゃんに線香の1本もあげられていない。
生き様を考えると当然の報いなのだろうが、誰にも悼まれない寂しい死だった。
「あの人は、底抜けに寂しい人だったんだな」と、祖母について冷静に振り返れるようになったのは、私自身が少なからず生きる苦労を知るようになってからだ。
神戸ばあちゃんの原動力は、コンプレックスと寂しさだった。自分は中卒のため、子供たちの教育には人一番熱心で、「3人の息子のうち、必ず1人は医者にする」ことが、人生の目標だった。
神戸ばあちゃんの4人の子供のうち、最も頭脳明晰だったのは伯母さんなのだが、時代的にも経済的にも女子教育にお金はかけられず、大学へ行かせたのは息子たちだけだ。
長男を関西の有名大学、次男を関東の有名大学に合格させ、念願かなって末の息子を国立大学の医学部へ進学させると、次に何をすればいいのか分からなくなったのだろう。
何より、子供たちが巣立った後、夫婦仲の冷え切ったおじいちゃんと2人きりで家にいるのは、かなり苦痛だったはずだ。
お見合いで結婚した夫婦間に情が通わなかったのは、決して容姿の問題ではないと思うが、神戸ばあちゃんは自分の外見にかなりコンプレックスがあったようだった。
美しい着物の世界に傾倒したのは、その反動でもあったのだろうか。
女として愛される魅力に恵まれず、伯母のように社会で認められる能力も持ちえなかった祖母の胸の内は、「空しさ」が充満していたのだろう。
穴の空いた心を塞ぐことができるのは、「愛し、愛され、求められる」充実感であり、お金ではない。
もしかすると、みんなそれを分かっていたのかも知れない。分かっていても、神戸ばあちゃんの広がり過ぎた心の虚無は、もう誰も引き受けられなかったのだ。
一時期は強欲な化け物のように思えていた祖母だったが、実体は「愛されたい!認められたい!幸せになりたい!」と叫んでいる、哀れな女に過ぎなかったのだろう。
それでも祖母の最期は、それほどみじめではない。あれだけの借金を作り、四方八方から嫌われてしまえば、普通ならばもっとひどい末路が待っている。
伯母に手厚く介護され、すっかりボケてしまうほど長く生きた神戸ばあちゃんの最後の日々は、あらゆることを忘れていくようだった。
感情の起伏がほとんど見られず、孫やひ孫の顔を見ても反応しない。持て余していた孤独さえも忘れてしまったのであれば、その眠りは安らかだったに違いない。