お金があることのありがたみは、いざ無くなってみて初めて分かる。
月並みだが、それが真実であることを実感したのは、1度目の結婚生活が破綻してからだ。
離婚するおよそ3年前から、私は人生で初めて経験する「貧乏」という状態に苦しんでいた。
脱サラした夫の退職に伴って、3LDKの社宅から移った2DKの古い団地には、謎の虫がよくわいており、日当たりも悪く、息が詰まりそうだった。
実際に、窒息寸前だったのだろう。子供たちの兄妹仲が良いのは微笑ましいことだというのに、狭い家では二人が戯れ合う声でさえ決壊しそうな神経に触り、よく怒鳴っていた。
些細なことでキレやすくなっていたあの頃は、ほとんど眠れていなかったのだ。
家計の赤字を補填するため、まだ幼かった娘を保育園に預け、週5勤務でパートに出ていたが、家に帰ってからも家事とワンオペ育児に追われる。ようやく一息つくのは深夜0時を回ってから。
1日の終わりにはヘトヘトに疲れているのに、私には身を横たえる場所もない。部屋が狭くて2組しか敷けない布団は、先に休んでいる夫と子供たちに占領されていたためだ。
仕方なく私は家族の足元で丸くなり、休まらないまま朝を迎えていた。布団から畳の上に体をはみ出して寝ていたため、いつも肩や背中が痛かったのを覚えている。
ある人気漫画家が「貧乏は病気だ」と言っていたが、あんな暮らしを長く続けたら、心身を病まないほうがおかしいだろう。
子供の頃の私は、「家にお金がない」ということが分からなかった。父親が総合病院の勤務医という、そこそこ裕福な家庭で生まれ育ったからだ。
裕福といっても「そこそこ」なのは、親が医者とはいえ開業医ではなかったから。父親の車は外車ではなかったし、日々の暮らしぶりも並より贅沢ということはなく、お小遣いの額も友人たちと変わらなかった。
それでも年に一度は家族で海外旅行へ出かけ、教育にもお金をかけてもらい、かつ好きな進路を選ばせてもらえる程度には裕福だったので、苦労知らずのまま大人になったのだ。
だから何の根拠もないのに、自分は貧乏と一生無縁だと思いこんでいた。お金に不自由しない大金持ちになるとまでは考えていなかったが、普通に生きていく分に困ることはないだろう。自分はそういう星の元に生まれついているのだと、たかを括っていた。傲慢だったのだ。
「貧乏になると頭が悪くなる」などと世間では言われるが、そうではない。日々の暮らしに汲々とするようになると、頭がまともに働かなくなるのである。まともに働いていない頭でいくら現状を打破しようと試みても、無駄というより無理である。
自己責任論や自助ではどうにもならない。誰かが現れて、ひっぱり上げてくれない限りは。
幸運なことに、私にはその誰かが現れた。すでに亡くなっていた、母方の祖父だ。
神奈川での暮らしが暗礁に乗り上げて、家族揃って地元である高知県へ引き上げた時には、夫も私も無職になっていた。それなのに生活水準が上がったのは、母方の祖父が遺してくれた駅前のマンションに住むことができたからだ。
祖父母が晩年を過ごしたマンションの室内は、築25年経っていたが1度も修繕しておらず、あちこちが傷んでいた。それでも十分な広さがあり、不自由な暮らしを3年送った後の私には、まるで天国のように快適に思えた。
ついに関係が修復不可能となった夫に家を出てもらったのは、地元にUターンしてから半年が経つ頃であったが、引き裂かれるような思いに涙したのは一晩だけ。その翌晩から、ようやく私はぐっすり眠れるようになった。
やっと、長く辛かった結婚生活の苦痛と苦労から解放されたのである。しかし、安心して眠れるようになると、今度は起き上がることができなくなってしまった。最低限の家事と育児はどうにかこなしていたものの、眠っても眠っても一向に疲れが取れず、なんと3ヶ月も布団をあげられない日々が続いた。それほどまでに、疲労困憊だったのだ。
生前の祖父が休んでいた和室で、祖父の使っていた布団に包まれて眠り続けるなかで、私はずっと祖父のことを思い、心の中で謝っていた。
祖父は、私の結婚に反対だった。夫のことが気に入らず、きっと私とは上手くいかないだろうと祖母にこぼしていたそうだが、若かった私は、そんな祖父の懸念を笑い飛ばし、完全に無視していた。それなのに、結局は祖父の心配していた通りになってしまったのだ。
祖父は、穏やかな人だった。声を荒げるところを見た事は一度もないし、きつく叱られた覚えもない。けれど、決して甘い人ではなかったと思う。
私の父は、義理の父にあたる祖父について、
「あの人はやっぱり大阪の人だよ。そうは見えないけれど、実はシビアで、金を稼ぐのが上手い」
と評していた。
そう。祖父は大阪出身の外科医だった。軍医として従軍した祖父は、一度も前線に出る事なく生き残れたのは幸運だったが、戦時中の空襲と戦後の混乱で、全財産を失っていた。都会に留まっていても食料を手に入れることができず、食うに困ったあげく、地方へと流れてきたのだ。
「高知まで行けば、田舎だから食べ物があるだろう」
と考えたらしい。医師を募集していた高知の公立病院にひとまず就職したが、ほどなく腕の良さを聞きつけた私立総合病院の院長に高給を提示されて引き抜かれ、そこで腰を落ち着けた。
現役時代の祖父は、名医との呼び声が高く、わざわざ県外からも患者がやってきて列をなしたそうだ。
高給取りで勤勉だったのだから、当然ながらお金は貯まる。
けれど、祖父は生涯慎ましかった。
一度全財産を失ったせいなのか、消費には慎重であり、贅沢を好まなかったのだ。
貯まっていくお金の使い道として祖父が選んだのは、投資と家族への援助である。
祖父は、私たち孫に普段お小遣いを渡す事はなかったし、お年玉ですら少額であったが、必要な時には惜しまず援助をしてくれた。
東京の大学で落第と留年を繰り返した兄がどうにか無事に卒業し、それなりの会社に就職できたのは、留年分の学費と生活費は出さないと兄に言い渡していた父に代わって、祖父が支援を続けたからだ。
私にも、大学進学の際に「このお金で見聞を広げるように」と、まとまった額のお金をプレゼントしてくれた。さらにイギリス留学を終えて日本へ帰国した際にも、「新生活の準備に使いなさい」と、やはりまとまったお金を用意してくれた。
整形外科になった息子(私の叔父にあたる人)が独立開業する際に、多額の開業資金を出したのも祖父であり、祖父の娘である私の母には、「ここに家を建てるといい」と、土地をプレゼントしている。
今になって感心させられるのは、祖父の不動産を選ぶ目である。高齢化と人口減少に悩む地方では、不動産は資産どころか「負け」と書いて負動産となってしまう土地建物が少なくない中で、祖父の購入した土地や物件は、どれも立地の良さから価値が下がっていないのだ。
私たちが入居したマンションもそうだった。祖父は、不動産に関して目利きだったのである。
母子家庭となり、しかも地方で暮らしながら車を持たない私にとって、仕事にも子供たちの教育にも便利な場所で暮らせて、しかも月々の家賃負担が無いのは大きかった。そうでなければ、少ない収入で家族3人が人並みに暮らしていくのは難しかっただろう。
祖父の気配が色濃く残るマンションで生活を続けるうちに、私は少しずつ心身が癒され、理性と平常心を取り戻していった。一朝一夕というわけにはいかず、3年ほど時間を要したが、いざ頭が冴えてみれば、己の能力とその限界、置かれた立ち位置が冷静に見えてくる。
色んなことが見えた結果、私は祖父と経済観念がよく似た男性を選び、再婚することにした。今の夫は、祖父と出身地も出身大学も同じである。
そして夫のサポートを得たことで、こうして文章を書く仕事も始められた。もしも祖父が生きていたら、2度目の結婚にはきっと賛成し、喜んでくれたことだろう。
私にオカルト趣味はなく、スピリチュアルも積極的に信じないが、それでもあのマンションで暮らしていた間は、いつも祖父に見守られているような感覚があった。離婚も再婚も、そこには祖父の意思の働きというか、導きがあったように思えてならないのだ。
再婚した夫は転勤族であったため、再婚してから今年の春までの間に、私たちは5回も引っ越しを繰り返した。
その度に家具や持ち物を整理したので、マンションで私が受け継いだ祖父母の家具や遺品も、もうかなり少なくなってしまった。けれど、もはや使うことなどないのに、どうしても思い切ることができず、捨てられない物がある。
生前の祖父が、玄関で靴を履く際に腰掛けていた木の椅子だ。
その椅子は、祖父母が高齢になり、見晴らしと日当たりの良いマンションに引っ越す前から、祖父母宅の玄関で長年使われていたものだ。
その椅子を見ていると、私には祖父母が長く住んだ越前町の一軒家と、椅子に腰を掛けて靴を履いている祖父の姿が浮かんでくる。
出かける際、祖父はその椅子にゆっくりと腰をかける。そして長い靴べらを使って靴の踵を合わせたら、また老人らしい動作でゆっくりと立ち上がり、分厚く重たい木製のドアに手をかけるのだ。ドアには鈴がつけられていて、祖父が玄関を出る際には、チリンチリンと鈴の音が廊下に響いていた。
どうやら私の人生がすっかり落ち着いたのを見計らって、祖父はとうとう天国のドアをくぐったらしい。私の周辺から、祖父の気配は消えてしまった。
それでも椅子がある限り、私には今も祖父の残像が見えるのだ。死してなお私の人生を救ってくれた恩人なのだから、忘れることはできないし、忘れたいとも思っていない。
だから私は、今もその椅子をリビングに置いている。それは私にとって幸運の家具であり、天国の祖父との繋がりであるのだから。