「すでに寿命を迎えているものを、いかに延命しながら安楽死させるか」
ということについて、ここ最近ずっと考えている。
人の話ではない。組織についての話だ。
私はこの春から、とある商店街組合の事務を請け負うようになった。
知人から、
「事務とはいっても、事務職の経験がなくても務まる簡単な仕事ですよ。薄給の代わりに自由度が高いので、ダブルワークにはもってこいです」
と勧められて、引き受けることにしたのだ。こちらとしても、ライター業と無理なく両立できる仕事を探していたので、「ちょうどいい仕事が見つかってラッキー」だと思っていた。
しかし、「自由で簡単な仕事」という説明は嘘だった。
その組合は破綻しかかっていたのだ。
あらゆる意味において。
もしも最初から、「当組合は組織として破綻しかかっており、財政的にも破産しかかっています。今後の舵取りは大変です」と、偽らざる事実を打ち明けられていたら、決して引き受けたりしなかっただろう。
けれど、都合の悪い事実は全て伏せられていた。組合の内情が分かったのは、前任者が膨大な残務を放置したまま退職し、業務が私に引き継がれると総会で発表された後のことだ。
前任者であるおばさんも人が悪いなと思うが、他人を犠牲にしてでも自分は逃げたいと思うほど、疲弊しきり、追い詰められていたのだろう。決して根が悪い人でない。
それでも、初めのうちは「騙していたな」と腹を立てていたので、親世代である彼女に対し、「あなたはこの仕事を、自分の娘に引き継がせられますか?とんでもないと思うでしょう?
それなのに、他人の娘(私)には押し付けても良いと思ったのですか?」
と、嫌味の一つも言ってやりたくてたまらなかった。
けれど、脳内で反芻していた辛辣な言葉の数々を、口に出すことはどうにか堪えた。彼女もまた、哀れな被害者なのだから。しかも、責められるにはすでに歳をとり過ぎており、あまりにも長く苦労をし過ぎていた。
体裁ばかりで中身は壊滅的な状態にありながら、これまで組合がどうにか破産と決定的な破綻を免れてきたのは、ひとえに彼女の献身と、自己犠牲によるものなのだ。
しかし、私はここの商店街とも組合員とも、一切利害関係がない。この町に土地建物を所有しているわけではないし、この町で商売もしておらず、親しい友人もいない。あくまで第三者的立場の人間だ。
けれど、前任のおばさんはそうではなかった。先代からこの町に物件を持ち、この町で商売をし、この町で子育てをして、この町で老いてきた。狭い地域社会の中で、無碍にできない人との縁が複雑に絡まり合って檻となり、これまで彼女を閉じ込め続けてきたのだろう。
「世にも奇妙な物語」という古いドラマに、檻に閉じ込められた男の話がある。その檻は簡単に出入りできるように見えるけれど、実は身代わりになる誰かを犠牲にしないと、決して外へは出られない。
長い長い時を、一人ぼっちで、檻に閉じ込められて過ごした男は、ようやく現れた若者を騙して捕まえ、入れ替わりに自分は檻の外へ出る。
「俺は待ってたんだよ。俺の代わりに来てくれる奴を。
あんたが来てくれたから、俺はここから出ていけるんだよ」
そう言い残して、囚われのプリズナーは遂に檻から解放される。
この組合の事務局も、あのドラマの中の檻と同じだなと思うと、悲しくなるやら可笑しくなるやらだったが、内情を知れば知るほど、次第に可笑しみの方が勝り始めた。
不謹慎かもしれないが、ライターとしては非常に興味深いのだ。時代の中で役割を終えていく、閉塞的な組織内部の実情が。
長い年月の間に絡まり合って泥沼化した人間模様にも興味をそそられるが、各組合員が営む商売の経営状態が、クリアに見えてくることも面白い。
例えば、まるでヤクザ者のようなイメージの地元企業の社長は、高校もまともに出ていないようだが、非常に頭の切れる人物で、経営の手法も真っ当でクリーンだ。
店舗にもバックオフィスにも活気があり、社員たちの物腰からも余裕が漂っている。
その一方で、押しも押されもせぬ老舗企業でありながら、今ではよほど経営が苦しいのか、組合費を払い渋る上に、初夏だというのにオフィス内はろくにエアコンも効いていない有様の会社もある。当然ながら、オフィス内の空気は殺伐としている。
また、地元では新進気鋭の若手実業家で、好青年だと評判の人物が、実は裏表のある人柄だということも分かった。決算書の数字や日本語さえまともに読めないのだから、あの様子では事業に限界が来るのも時間の問題だろう。
そうしたことは、この仕事に関わるまで知りようのなかったことだ。
意外であったのは、理事たちの組合に対する冷淡さだった。
私が事務局の業務を引き継ぎ、組合が破産しかかっていることに気づいた時、当然ながら理事に名前を連ねている人たちには状況を説明し、情報も共有した。組合を代表しているはずの彼らに、今後の指示を仰ぐためだ。
当初、私は理事たちが血相を変えて、今後の対策を協議するものだとばかり思っていた。
しかし、そんなことは誰もしたくないようだった。理事たちは現実的な解決に向けて必要な話し合いをしないばかりか、むしろその日を境に彼らは私を避けるようになってしまったのだ。用があって連絡をしても、返信さえまともにもらえない。
私は見捨てられたのだ。
わけがわからなかった。
「すみません。なぜ私が一人でこの問題の対処にあたっているのですか?
これはあなた方の組合ではないのですか?あなた方の町の問題ですよね?
私は一介の事務員に過ぎず、部外者なのですよ」
と詰め寄りたかったが、そんなことをしたって無駄なこともすぐに悟った。この組合の理事会は、単に制度上の必要があって、立場上断りにくい人たちが名前を貸しているだけなのだ。
だから今の理事たちには、組合を解散させる熱意すら無いのである。
「まあ、そうだよな。だって、あの人たちもボランティアなんだから」
と、見捨てられた私は独りごちる。
つまり、もはや理事たちにとっても、商店街組合は己の商売に役立つ存在では無いと言うことだ。メリットが感じられないのに、誰もタダ働きはしたくないのだろう。
うっかり私と仲良くなって、頼りにされたのではたまらない。それが彼らの本音ではないだろうか。
べつに、彼らがとくべつ薄情だとも思わない。これが、今や全国の商店街で普通に見られる現実なのだ。
現在の組合の主な仕事は、インフラの管理と整備である。高度化事業計画で作った構築物(アーケードや歩道の屋根、カラー舗装道路、街路灯、街路樹など)は年々老朽化が進み、その修繕と維持管理費はかさむ一方。しかし、商店主の高齢化と後継者の不在、空き店舗の増加で組合員は減り、収入は減る一方。
いかにして少ない予算で最低限のインフラ整備をしつつ、組合をダウンサイジングしていくのか。それが今後に向けた喫緊の課題だ。
必ずしも必要でない事業や業務は思い切ってカットして、固定費も見直しが必要だろう。
業務の効率化と簡略化を進め、財政再建ができたなら、最後は私をリストラして任務完了となる。
余計な事業を整理した上で人件費の負担もなくなれば、浮いたお金を事業に回せるようになり、組合も一息つけるだろう。今の理事たちに組合の解散を目指す意欲がない以上、こうしてでも組織を延命させるしか道はない。
理事たちは、これまで事務員に押し付けていた仕事が自分に回ってくることに難色を示すだろうが、もはや事務員という贅沢品が身の丈に見合っていないのだから仕方ない。
私がいなくなっても大して困らないように、下準備はしっかりとしておくつもりだ。
「そっちは大変そうですね。そんなことまでしてあげるなんて、全然お給料に見合ってないじゃないですか。ほとんどボランティアでしょう?よく引き受けましたね」
と私に声をかけてきたのは、近隣商店街の事務員さんだ。近隣商店街とも話し合いが必要な事業があるため、彼女にも多少の事情は打ち明けてある。
「そうですね。逃げちゃってもいいんですけど、今わたしが辞めると前の事務員さんがまた頼りにされて困るだろうし、組合も大混乱に陥るでしょうから。それだと、流石に寝覚めが悪いでしょ?」
「そうなんだ。でも、実は私もいつまでこの仕事をしているか分からないの。長く働き続けるのは無理だと思う。
今すぐにどうこうなるってわけじゃ無いけど、こっちの内情も似たようなものだから。
長い目で見たら、もう商店街組合というものが存続不可能ってことは、嫌でも分かってきちゃうよね」
そうなのだ。実は、破綻の危機にある同市内の近隣商店街は、うちだけではないどころか、噂が聞こえてくるだけで他に4つもある。
彼女が働く組合は、「あそこはまだ大丈夫だろう」と思われているところだが、現場を知る事務方の感覚では「もう長くは保たない」と実感するところまで来ているらしい。
「インフラを維持していくにはお金がかかるのに、新しく出店してくる人たちは、組合費を払おうとしないの。いくら連絡をしても、何度お店を訪ねても無視されっぱなし。でも、いざ組合がなくなったら、困るのは自分たちだと思うけどなぁ」
と言い募る彼女に、
「そんなの、分かんないですよ」
と言葉を被せた。
「組合に入ってくれない商店主さんの一人に言われたんですけど、その人は県外の商店街にもショップを出していて、そっちの組合は去年解散したそうです。解散した後に、有志でグループを作ってお金を出し合い、街路樹を撤去する代わりに、街路灯を増やしたんですって。そしたら、通りが明るくなったことで通行人が増えて、お店の売り上げも伸びているそうなんです。
それまでの組合がなくなってからの方が、自分達で新しいことを試せるし、ずっと町の雰囲気が良くなりましたよって言われちゃいました」
そうなのだ。実のところ商店街と商店街組合はイコールでは無い。死にかかっているのは組合であって、決して商店街そのものではないのである。
今の商店街は日本の縮図だ。組織の重鎮として意思の決定権を持っているのが70代〜90代の高齢者であるため、例え組合に参加しても、意欲的な若い商店主たちの意見が反映されることはない。
立地が悪くない商店街なら、いっそ解散を選択することで負担が軽くなり、若く意欲的な起業家たちが集まって、町が息を吹き返すかもしれないのだ。
そこにバトンを繋いでいくために、私は今日も組合の終活に励んでいる。
今ある組織の延命と安楽死。その後に生まれ変わって再生する未来に、希望があると信じたい。