私はある日を境に、「コスパ」という言葉が嫌いになった。
「嫌い」というより、「コスパ」という判断基準に疑問を持つようになった……といったほうが正確かもしれない。
どうせコストをかけるなら、それに見合った、もしくはそれ以上のパフォーマンスをしてくれるものを手に入れたい。それはそうだ。誰だってそう思うだろう。
だから、プチプラコスメや百円均一のような、コスパ至上主義の消費者に向けたものがよく売れるのだ。
こういった考えは最近、物を買う消費活動以外にも使われている。「結婚はコスパが悪い」「昇進しても給料は上がらず忙しくなるだけだからコスパ最悪」というふうに。
でも人生で直面する数多くの選択において、「損得」で判断できることなんて、そんなに多くない気がするのだ。だからいまは、「コスパ」にはそんなに興味がない。
私の判断基準は、「コスト」に対してどれだけ私を「幸せ」にしてくれるか、だから。
コスパへの考えを改めたのは、犬を飼い始めてからだ。
3年前、保護犬のクロを迎えた日のことを、いまでもよく覚えている。
私と夫にとって初めての犬だったので、しつけは試行錯誤……を通りこして、四苦八苦。すでに成犬だし、臆病なわりには頑固ですぐ威嚇してくるし……。
雑草を食べ過ぎて何度か白いカーペットに吐いたし、夜中ベッドにもぐりこんでくるから目が覚めるし、換毛期はマンションの共有スペースをしょっちゅう掃除しなきゃいけない。
クロは待つのが大嫌いなので半年以上レストランに行けなかったし、ようやく買い物デビューできたと思いきやデパートの床がすべる素材でパニックになりすぐに撤退。
大変だし、うまくいかないし、不便なことばかり。
世話にはお金も労力も時間もかかるのに、犬が私に利益をもたらすことはない。ペット系YouTuberにでもならないかぎり。
コスパ基準でいえば、犬は最悪の買い物である。
でも、それがなんだというのだろう。
私は、毎日とても幸せだ。
クロがいるだけで、それだけで、ただ幸せなのだ。だって最高にかわいいもの。
コストを上回る利益がなくとも、幸せなんだからそれでいいじゃないか。コスパなんてしょうもない。
クロを家族に迎えてから、そう思うようになった。
「コスパ」でモノゴトを判断する人は多い。
消費者庁による調査を見てみると、コスパを重視する高齢者は3割未満。それに対し、20歳代、30歳代ともに、コスパ重視と答えている人は65%にも上る。*1
ちなみに最近は、「タイムパフォーマンス(タイパ)」という言葉もあるらしい。三省堂の「今後辞書に載るかもしれない新語」大賞に選ばれており、時間対効果を意味する。*2
ただしこの記事では、「費用や時間、労力などをすべてひっくるめた投資(コスト)に対する効果(パフォーマンス)」という意味で「コスパ」を使っていきたい。
さてさて、多くの人が重視する「コスパ」だが、「費用対効果の損得」で判断できることって、そんなにたくさんあるのだろうか。
たとえば、私は小さな村に住んでいて、たまにご近所さんと立ち話をする。
正直、どこぞの見知らぬおばぁさんと30分も立ち話するなんて時間のムダだし、面倒くさいし、早く帰りたい。
だからといって雑談を拒否して時間を浮かせることが得なのかといえば、そうでもないだろう。それは人としてちょっと……ねぇ?
ほかにも、バレンタインデーはどうだろう。
父は毎年2月14日、紙袋いっぱいのチョコを抱えて帰って来る。そしてホワイトデー前は、母親とデパートに行き、山ほどお返しを買うのだ。
その買い物に何度か一緒に行ったことがあるが、「えっめっちゃお金かかるじゃん……」と驚いた。
女性社員は数人の上司にちょっといいチョコレートを配るだけだが、父はその全員に対し、そこそこのお返しを用意しなきゃいけない。面倒だし、お金もかかる。
でもお返しを選ぶ父は、「こういうのは気持ちだから」とクッキーの詰め合わせやら輸入の茶葉やらを楽しそうに買いこんでいた。
さて、父は「損」したのだろうか? お返しをもらった女性社員たちは、「プレゼントしたチョコより高いクッキーが返ってきて得した」と思っているのだろうか?
もちろん、そう考える人もいるかもしれない。
でもきっと、そういうことじゃないだろう。
このように、「どっちが得でどっちが損か」と判断することがむずかしい状況はたくさんある。というか、人生なんてそういう状況がほとんどじゃないだろうか。
それなのに「コスパ」ばかり考えていたら、間違った判断をしてしまうかもしれない。
「間違った判断」とはどういうことか。
それは、損得を意識するあまり不幸になる選択のことだ。
村のおばぁさんとの雑談を拒否し、時間を効率的に使ったとして、私は幸せになれるだろうか。
さすがに意地悪はされないだろうが、おばぁさんはもう私に挨拶してくれなくなるかもしれない。それで困ることはないが、さすがに居心地が悪い。
時間を節約するためにご近所さんとの雑談を拒否した結果、不幸になったとしたら、たとえコスパがよくても「良い選択」とはいえないだろう。
バレンタインだってそうだ。
日ごろの感謝を伝え、それにお返しをするイベントにおいて、損やら得やらの価値観を持ち出すのは無粋。
まぁ「バレンタインは面倒くさいから勘弁してくれ」という人もいるだろうけど、楽しんでいる人たちにとって、損得は関係ない。
ほかにもコスパを重視して、「今買うとお得ですよ」と言われて全然ほしくないものを買ってしまったり、早く結末を知るために早送りしながら映画を見た結果感情移入できずに全然おもしろく感じなかったり、なんてこともあるだろう。
たしかにお得な買い物をして、映画を早送りして時間を節約できたのかもしれないが、それで幸せを感じなければ「良い選択」とはいえない。
だからこそ、「コスト」に対する「パフォーマンス」ではなく、私は「コスト」に対する「幸福度」で物事を測りたいと思うのだ。
ダイソーの口紅を愛用する人がいる一方で、Diorの5,000円の口紅を使う人がいる。
ではもしこの2つが、同じ発色、色持ちだったとしたら?
多くの人は、「当然ダイソーの口紅を買う」と答えるだろう。そりゃそうだ、同じ性能なら安いほうがいい。
でもなかには、Diorのファンで給料を貯めて少しずつコスメを買いそろえていたり、Diorのコスメを持っているとテンションが上がったり、デートのときはDiorの口紅で気合を入れたり……そういう人だっている。
その人たちにとって高いDiorの口紅を使うことは、たとえコスパ的には損でも、幸せになる手段なのだ。
それならば、たとえ同じ性能で高いだけだったとしても、その口紅には十分な価値がある(ちなみにDiorコスメのクオリティはものすごく高い。特にアイシャドウ)。
でも「コスパ」という考え方に囚われていると、高級化粧品なんてムダ、もったいない、安いもので十分、という結論になってしまう。
得する選択肢を選ぶことだけが、幸せになる手段ではないはずなのに。
どれだけコスパがよくても、本人が幸せだと思わなければ意味がない。
どれだけ損をしようとも、本人が幸せならそれはまちがってはいない(例外はあるにせよ)。
1,000円のわりにおいしいステーキがあったとしても、ステーキを食べたい気分でなければ、全然うれしくない。それでも「コスパがいいから」と1,000円出して食べたくないものを食べるのは、結果的に1,000円損しているのと同じだ。
逆に、なんでこんな値段がつくのか理解不能な高級ワインでも、好きな人とデートで一緒に楽しんで飲めば、決して損だとは思わないだろう。
そういうものなのだ、人生なんて。
コスパもひとつの判断基準ではあるけど、損得だけで測れるものなんて、そこまで多くはないと思う。
だから私は、「コスパ」ではなく、「自分が幸せを感じるか」を基準に、お金を使いたい。
出典
*1消費者庁「令和4年度消費者政策の実施の状況 令和4年消費者事故等に関する情報の集約及び分析の取りまとめ結果の報告」p62-64
*2三省堂「三省堂 辞書を編む人が選ぶ『今年の新語2022』選考発表会」
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