
老後の家計設計では、「いつから公的年金を受け取るか」が生涯の可処分所得に直結します。
繰上げ受給は、原則65歳からの老齢年金(老齢基礎年金・老齢厚生年金)を60~64歳のあいだで前倒し受給できる制度のことです。
生活費の確保という即効性がある一方、年金額は繰上げた月数に応じて恒久的に減るため、短期的な資金繰りと長期的な受取総額の両面からの判断が欠かせないものとなっています。*1
本記事では、制度のしくみ、主なメリット・デメリット、判断の基準までを、詳しく整理していきます。
年金の繰上げ受給とは、 本来65歳から受け取る老齢年金を、60歳から65歳になるまでの間に前倒しで受給できる制度です。
最大の特徴は、繰上げた月数に応じて年金額が生涯にわたって減額される点です。
減額率は1カ月あたり0.4%で、60歳0カ月から受給を開始すると24%の減額となります。*2
また、この制度には、後から変更できない重要な原則がいくつかあります。
これらのデメリットについては後の章で詳しく解説しますが、繰上げ受給は一度決めると「後戻りできない」非常に重要な選択であることをまずご理解ください。
繰上げには、老後初期のキャッシュフローを改善する現実的な効用があります。
一方で、減額が恒久的に続く点を踏まえ、メリットは「短期の収入確保」という位置づけで整理すると判断しやすくなるでしょう。*1
ここでは、年金の繰上げ受給のメリットについて解説します。
定年・早期退職・体調不安などで就労収入が細る場面では、 繰上げにより月々の年金フローを早期に確保できる点が挙げられます。
貯蓄の取り崩しペースを緩められるため、手元資金の目減りを抑える効果が期待できるでしょう。
例えば、失業給付・企業年金の受給が終わる空白期間を年金で橋渡しするなど、生活費の谷を埋める使い方は現実的な活用法といえます。*1
また、在職のまま繰上げ受給を選ぶ場合は「在職老齢年金」による支給調整の可能性も踏まえましょう(賃金水準や年齢区分で支給額の一部が停止されることがあります)。
働きながら受け取る想定なら、賃金見込みと在職老齢年金の基準額を照合して、実際の受取額を事前に試算するのが安全です。*4
元気なうちに使いたい支出、例えば、 旅行や趣味の道具、学び直し等を前半に寄せる「前倒し消費」を後押ししてくれるでしょう。
人生前半の活動量が高い時期に資金を配分することで、主観的満足度の高い老後デザインが可能です。
もちろん、前倒し分の反動として将来の年金が減るため、「今の充実」と「将来の安心」のバランス設計が前提となります。*1
さらに、つみたて投資(新NISA等)と併用する場合、繰上げで得たフローを「取り崩しの代替」として活用し、相場急落時の不要な解約を避ける効果も期待できます。
いわゆる“シーケンス・リスク(取り崩し期の下落)”を和らげる観点から、現金フローの平準化に資する場面もあるでしょう。*1
年金の繰上げ受給のデメリットは「永久減額」「取り消し不可」「他給付や手続きへの波及」の3系統に整理できます。
意思決定の前にこの3点を具体的に確認しておくことで、失敗を減らせるでしょう。
年金の繰上げ受給の最大のデメリットは、 年金の減額が生涯続くことです。
減額率は1カ月あたり0.4%で、60歳0カ月から受給を開始すると24%の減額となります。
繰上げで得られる「早くもらう5年分」と、65歳以降の「毎月の減額」を天秤にかけると、概ね80~81歳前後が損益分岐点の目安になるとの試算が一般的です(簡易計算:0.76×(A-60)=1.00×(A-65)→A≒80.8)。*2
長生きすると総受取額は相対的に不利になりやすいため、平均寿命を上回る長寿リスクをどう捉えるかが重要な論点となります。
この数値は簡易的な例であり、加給年金・税金・社会保険料等の影響を含めたご自身の状況での試算が不可欠です。*1
また、税金や社会保険料の観点でも注意が必要です。
年金は雑所得として課税され(公的年金等控除の適用あり)、受取額が変動すると所得税・住民税や国民健康保険・介護保険料の階層に影響が及びます。
繰上げ後の年金額で、これらの負担がどう変わるかを概算でも把握しておくと、家計の見通しが立てやすくなるでしょう。*5
年金の繰上げ請求は、 原則として一度手続きをすると取り消しや変更ができません。
たとえ後から収入状況が改善したとしても、65歳からの受給に戻したり、繰下げ受給に切り替えたりすることは不可能です。*3
就労・健康・家族構成など、数年スパンで変わり得るご自身のライフプランを慎重に織り込んだうえで判断することが求められます。
なお、老齢厚生年金のみの繰上げを選ぶ場合も、老齢基礎年金の同時繰上げが原則となるため、部分的な柔軟性を期待しにくい設計となっています。*3
また、配偶者がいる場合は家族給付との関係も見落とせません。
一定の要件を満たす配偶者がいる場合に老齢厚生年金へ加算される「加給年金」などは、繰上げ受給をしても早く受け取れるわけではないのです。
世帯全体の視点で総合的に判断することが欠かせないポイントとなります。*6
繰上げ受給は、 ご自身の年金額だけでなく、他の公的制度の利用や将来の手続きにも影響を及ぼします。
これらは見落としがちな点ですが、将来の選択肢を狭める可能性があるため、必ず確認しておきましょう。
繰上げ請求した老齢年金は、65歳になるまで遺族厚生年金など他の年金と併給できず、いずれか一方の選択となります。
65歳以降の併給の可否は年金の種類により異なります(一般に「老齢基礎年金+遺族厚生年金」は併給可だが、「老齢厚生年金+遺族厚生年金」は選択・調整の対象)。*1 *2
繰上げ請求をすると、その時点で年金額が確定するため、国民年金の任意加入や保険料の追納をすることができなくなります。
保険料の未納期間を後から納付して、将来の年金額を増やすといった選択肢が失われることになります。*2
この給付金は、老齢基礎年金の受給や所得状況などが要件となる別の制度です。
繰上げ受給が直接的に有利・不利に働くわけではありませんが、ご自身が対象になるか不明な場合は、年金事務所で確認しておくとよいでしょう。*7
ここでは、家計・健康・就労の3軸でチェックします。
制度上のルール(減額率・不可逆・併給調整)という“動かせない条件”と、ライフプランという“動かせる条件”を分けて考えるのがコツです。
定年退職後、現在の貯蓄や収入だけでは生活費が不足する場合、繰上げ受給は有効な選択肢となります。
具体的には、以下のような状況が挙げられます。
これらのケースでは、繰上げ受給によって毎月の収入を確保できる即効性が、大きな安心材料となるでしょう。
ただし、安易に判断してはいけません。
最も重要なのは、 65歳以降の減額を踏まえた「生涯収支」を必ず確認することです。*8
目先の生活費を補うために繰上げた結果、長生きした場合の総受取額が大きく減少し、将来かえって生活が苦しくなる可能性を無視してはいけません。
繰上げ受給を検討する際は、同時に「支出の見直し」や「資産の部分的な売却」など、他の選択肢がないかも検討しましょう。
繰上げが“唯一の解決策”なのか、一度立ち止まって考えることが大切です。*1
 病気・要介護・家族介護などで労働供給が難しい場合、繰上げは実効性のあるセーフティネットとなり得ます。
一方で、在職老齢年金の仕組みや、65歳からの繰下げ受給(0.7%/月で増額)も視野に入れ、総合的に判断することが大切です。 *2 *4 *9
判断に迷う場合は、以下の手順で情報を整理してみましょう。
さらに、年金額によって税金や社会保険料の負担も変わります。繰上げ後の「手取り額」でシミュレーションを行うと、より判断の質が高まるでしょう。*5
繰上げ受給は、「いまの安心」と「将来の安心」を交換する意思決定です。
判断の根幹となるのは 「①永久に減額される」「②一度決めたら取り消せない」「③他の制度にも影響が出る」という3つの動かせない事実です。
この事実を踏まえ、最終判断の前には、ご自身の状況を客観的に見つめ直しましょう。
健康状態や貯蓄額を鑑みて、65歳まで他の手段で乗り切れないか、もう一度検討する。
「ねんきんネット」でご自身の年金見込額を必ず確認し、思い込みや概算で判断しない。
併給制限など複雑なケースに該当しないか、一度は年金事務所に相談し、疑問点を解消しておく。
「繰上げにしてよかった」という声も、「しなくてよかった」という声も、どちらもその人の状況における真実です。
どちらが正解かではなく、 あなたの人生にとっての“納得解”を、正確な情報に基づいて選び取ることが最も重要です。
本コラム執筆時点における情報に基づいて作成しておりますので、最新情報との乖離にご注意ください。
出典
*1 日本年金機構「年金の繰上げ受給」
*2 日本年金機構「老齢年金ガイド」
*3 厚生労働省「50~60代の皆さんへ|いっしょに検証!公的年金」
*4 日本年金機構「在職老齢年金の支給停止の仕組み」
*5 国税庁「公的年金等の課税関係」
*6 日本年金機構「加給年金・振替加算」 
*7 日本年金機構「年金生活者支援給付金」
*8 日本年金機構「ねんきんネット(年金見込額試算・記録の確認)」
*9 厚生労働省「年金制度改正法(令和2年法律第40号)が成立しました」
